現在でも小松大聖寺教区では地域の門徒の人が集まり、お内仏を前にそろって『正信偈』を唱和して、僧侶の法話を聞く、というお講が行われています。
浄土真宗におけるお講は、本願寺第八代の蓮如上人の時にはじまりました。衰退した本願寺の宗主を継承した蓮如上人は、宗祖親鸞聖人が顕かにされた本願念仏の教えを世間に広めるため『正信偈』を唄うように、お勤めとして各地に伝えました。これは、文字を読めない人でも、大事なことが書かれている『正信偈』を口にすることができるからです。
文明十八年(1486)の上人のお手紙に、小松の地に「能美郡四講」というお講が組織されたことが記されています。おそらく浄土真宗の歴史の中で一番早くできたお講と考えられます。この四講が始まりとなり、今も八つの組お講が組織されています。このことから、ここ小松大聖寺教区ではお講が500年以上続けられていることがわかります。
ところで当時、各家々にはお内仏は据えられていませんでした。おそらく上人は各地域に、本尊と製本された『正信偈』に加え御消息(お手紙)を授け、教化したものと思われます。本尊は紙に書かれた「六字名号(南無阿弥陀仏)」あるいは「十字名号(帰命尽十方無碍光如来)」でした。それらを各集落へ持ち回りでお飾りをしてお講がつとめられたと考えられます。『蓮如上人御一代記聞書』の「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」は、それほどお講が盛んにおこなわれた証しなのでしょう。
さらに当時は封建制度が強い武家社会でした。そんな中で百姓といわれる人々はどれほど生きることに価値を見出していたでしょうか。現代からは想像もできませんが、おそらく虐げられたことは想像に難くありません。そういう彼らはお念仏に遇い、生まれた喜びや生きる意味を見出していったのかもしれません。
蓮如上人以降も、歴代の宗主によって授けられた御消息が教区内の各地に残されていて、それを拝読して大切にお守りされています。お講をつとめ、私たちの先輩方が出遇って伝えてきたものに思いを馳せ、さらに後へ伝えていくことが私たち真宗門徒の仕事なのかもしれません。
(小松大聖寺教区妙観寺住職 山内譲)
※能美郡四講(のみごおりしこう)
能美郡一揆の有力門徒の四つの集団からなる講組織
※文明十八年の『蓮如上人御文』 伊勢法雲寺蔵
抑能美郡同行中ニ、就仏法四講ト云事ヲ始テ、当流法義之是非・邪正ヲ可讃嘆興行在之由聞候(中略)
仏恩報謝ノタメニ行住座臥ヲエラバズ称名念仏スベシ、コレスナハチ南無阿弥陀仏ノ躰ニキハマルナリトココロウベキモノナリ、アナカシコ アナカシコ
文明十八年正月四日
能美郡四講中へ